四季のファンになった理由/『ライオンキング』の死生観 #ライオンキング #劇団四季

私は劇団四季のファンになって1年ほど経ちました。

1年経った今、私はなぜ四季を好きになったのかを改めて考えてみたくなったので、書いていこうと思います。

 

 

オタク遍歴について

突然ですが、私のオタクの原点はボカロにあります。

私は幼少期からヴァイオリンとピアノを続けてきたのでクラシック音楽にどっぷり浸かってきた人間だったのですが、ボカロ全盛期にボーカロイド音楽と出会ったことで私の世界が変わりました。

今まで自分が触れて来たクラシック音楽にはないような電子音、人間には歌いこなせないような旋律…このようにボカロが生み出す音楽表現の幅の広さに感銘を受けました

 

また、私が熱心に応援していた某ボカロコンテンツがアニメ化することになり、それをきっかけにさまざまなアニメ作品を見るようになりました。

そうしてアニメを鑑賞するうちに、キャラクターに命を吹き込む「声優」にも興味を持つようになります。そして某声優を好きになり、その人の活動を追うようになりました。

 

推し活8年目のできごと/愛犬との別れ

それからは割と一途にその声優を推し続けて、気付いたら8年経っていました。

しかし昨年、ある出来事をきっかけにオタクを卒業することになりました。約10年来の推しから離れたことで、とてつもない虚無感に苛まれました。

 

また昨年、私は愛犬を亡くし、そのショックでずっと塞ぎ込んでいました。このことに追い討ちをかけるようにオタ卒のきっかけとなる出来事があったので、生きがいをすべて失うという状況に陥りました。2021年は本当に何度も心が折れていた年でした。

 

劇団四季との出会い

上記のような出来事が続き、もう現実を見るのがしんどくなっていました。

「非現実を味わいたい」と思い、舞台でも観ようかなぁと軽い気持ちでネットサーフィンしていたときに、劇団四季の『ライオンキング』の公演情報を見つけました。

劇団四季は小学生のころに「こころの劇場」で1回観たことがあったのですが、それ以降は観たことがありませんでした。母が以前『ライオンキング』に行ったときに絶賛していたことを思い出し、行ってみることにしました。

 

『ライオンキング』が教えてくれた「死生観」

何気なく観に行った『ライオンキング』ですが、このときの観劇に人生が救われたと言っても過言ではありません。今となっては四季が上演する作品はいろいろ観るし、好きな作品もいろいろなのですが、このときに観た作品が『ライオンキング』以外の作品だったら四季にハマっていなかったかもしれません。

 

ライオンキングには『サークル・オブ・ライフ』という曲もあるように「生命はめぐる」というメッセージがこめられているかと思います。

私は愛犬を亡くした当初「亡くなった子とはもう会えないんだ」というの死生観のもとで塞ぎ込んでいて、この現実を向き合う手段を見出すことが出来ませんでした。

しかしこの作品が私に教えてくれた「生命はめぐる」という死生観を知ったことで、「死」が生命の終わりではないのだと気づきました。実際、愛犬の姿はずっと私のなかで生き続けているし、今でも私の心の支えとなってくれています。これからも続く私の人生、ずっと絶望を感じながら生きるのではなく、今も私の心を支えてくれているあの子のことを、これからも大切にして生きていこうと思うことができました。

 

劇団四季の芸術性に魅せられて

一番最初の項目でも記した通り、幼少期から私の基盤には音楽があるのですが、劇団四季の『ライオンキング』を観たことをきっかけに、ミュージカルという「総合芸術」の枠組みの一部である「音楽」が持つメッセージ性の強さに心を打たれました。

『ライオンキング』を観た限りでも、劇団四季は舞台装置・美術・音楽・演技・歌唱力・ダンスなど、すべてにおいて芸術性が高いと感じました。いろいろ調べてみると、「俳優の知名度に頼らない作品主義」をとっているようで、その実態についてもっと知りたくなり、さまざまな演目を鑑賞しました。どの作品も本当に素晴らしく、その芸術性の高さにある「作品主義」に共感をおぼえ、晴れて劇団四季のファンになりました。

 

(作品主義について長々と語ってます→https://nonono-no-blog.hatenablog.com/entry/2022/08/09/171556

 

「出会いのタイミング」のはなし

最後に、出会いのタイミングについて。

 

何かを好きになるときって、「もっと早く好きになってれば良かった」と思うことが多かったんです。元推しを推し始めるときもそう思いました。

 

だけど、劇団四季とはこのタイミングで出会って本当に良かったと思っています。このタイミングで『ライオンキング』を観たからこそ知ることができた死生観や価値観は、私にとって一生ものとなりました。

 

出会いって必然的なもので、出会うべくして出会うものなのかなぁと今は感じています。これからはあまり気負い過ぎずも、ふとした出会いを大切にしながら生きていきたいです。

 

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2022,08,12

『オペラ座の怪人』から考える、劇団四季の「作品主義」について #オペラ座の怪人 #劇団四季

2022年5月8日、大阪四季劇場にてミュージカル『オペラ座の怪人』を観劇してきました。

観劇からかれこれ3ヶ月経ちますが、観劇後すぐに軽く感想をメモしていたので、それを校正しつつ書いていきたいと思います(今更)

 

 

 

 

ミュージカル『オペラ座の怪人』における、劇団四季の「作品主義思想」について

劇団四季はキャストのトップ制をとっておらず、作品主義の劇団として有名です。しかしそのなかでもキャストによって作品や登場人物の印象が変わることはあります。

特に『オペラ座の怪人』におけるファントムは、物語の基盤となるようなキャラクター性はどのキャストを見ても一貫していますが、「ファントムのどのような部分を強調して演じているか、自分の持つ声質や演技力をどのようにして芝居にするか」という点はキャストの技量によって様々だと感じます。

 

しかし、キャストによって作品の印象が変わってしまうのは、果たして「作品主義」と言えるのでしょうか?

 

オペラ座の怪人』を観劇後、私はこのような疑問を感じていました。

では一体「作品主義」とはどのようなことを指すのでしょうか?

 

四季には「作品主義」という考え方があります。知名度のある俳優の人気に頼って集客をするのではなく、作品そのものが持つ感動をストレートにお客さまに届けるということです。優れた作品は人の寿命より長いサイクルを生きていくもの。役や作品を俳優個人に結び付けるのではなく、そのとき最も優れた俳優たちが演じる舞台の方が、お客さまに楽しんでいただけると考えます。それゆえ上演作品の選定が非常に重要になります。四季では、その作品が「人生を肯定するメッセージを持っているか」ということを大切にします。ご観劇の後、「人生は素晴らしい」「明日も前向きに生きていこう」と感じられる作品が、一番お客さまの心に強い印象を与えると思うのです。

引用:吉田智誉樹社長に聞く 「劇団四季はなぜ、高い支持を得る作品を上演し続けられるのか」 | ウェブ電通報(最終閲覧 2022年8月9日)

 

この記事を読むと、劇団四季が考える「作品主義」について理解出来たような気がします。

 

現在の演劇業界は、キャスト主体で作品創りに挑むことが多い気がします知名度のある役者をキャスティングすることで集客も見込めるし、「自分の好きな俳優が出演するからこの作品を観にいこう」と考える方も多いと思います。実際に私も好きな俳優がいたので、その推し目当てに舞台を観にいくことも多かったです。

 

しかし劇団四季ではまず「作品が第一」で、キャストは作品をお客様にお届けするために存在するのだと言っても過言ではないように思います。そしてスタッフ含めた劇団員たちはこの理念のもとに集まって、日々演劇を世に送り出しているのですね。

 

キャストはまず作品を第一に考え、作品主義を徹底する→キャスト個々人の特性を考慮しながら役作りに挑む→それをお客様にお届けする

 

劇団四季では、上記のように作品が創り上げられているのではないでしょうか?

キャストによって作品の印象が変わるにしても、どのキャストの公演を観ても作品の良さはストレートに伝わって来て、観劇後には「素晴らしかった」「明日も前向きに生きていこう」と感動することに変わりはありません。

 

キャストを主体とするのではなく「作品の魅力をストレートに届ける」という理念を主体とし、またこれを「作品主義」と定義するのであれば、劇団四季の「作品主義」は一貫しているように私は感じました。

 

 

岩城雄太さんのファントム

ここまで長々と書いて来ましたが、上記の経緯を経て、2022年5月8日、私は晴れて岩城ファントムの沼に落ちました()

現在ファントム役でキャスティングされている俳優は低音を武器としている人が多いと思うのですが、そのなかでも岩城さんは比較的声が高めです。

岩城さんの歌声には艶やかさがありながら、所々でぞっとするような狂気を感じさせ、一方で今にも壊れてしまいそうな儚さを持ち合わせています。音楽の天使そのものです・・・。

 

さまざまな要素を持ち合わせている岩城ファントムですが、最大の特徴は「あやうさ」にあるように私は感じます。巷では精神年齢低めのファントムだと評されることが多いように、本当に繊細で、ふとした瞬間に消えてしまいそうな…。特に2幕ではその脆さが顕著になっています。

 

ドンファンの勝利』ではもはや退けないところまで来てしまったファントムとクリスティーヌ。狂気的になり、ピアンジをも殺めてしまうファントムですが、それでもなお私は、ファントムを可哀想だと思ってしまいました。

 

その要因として、ミュージック・オブ・ザ・ナイトで歌われる彼の心情、彼の生い立ち、不器用な愛情表現など、このシーンまでに岩城さんによって繊細に描写されてきた表現にあると感じます。某芸人がラジオでも語っていたように、「母性が湧く」というか、「救ってあげたい」「どうか報われてほしい」と思うのです、、、。

2021年10月発行の四季の会会報誌ラ・アルプのインタビューでの本人談曰く「ファントムの中にある幼さ」を大切にしているようで、たしかに子供のように守ってあげたくなる愛おしさがあります。

 

岩城さんのファントムは、「人から愛されることを知らず、どのように人をどのように愛したらいいかがわからない」というような、ファントムの心の中にあるナイーブな部分が非常に色濃く表現されており、その岩城さんのアプローチが観客を感傷的な気分に浸らせるのだと思います。

 

 

特定の俳優のファンでいることは、劇団四季の「作品主義」からの逸脱なのか?

私は岩城雄太さんが演じるファントムのファンです。

 

・・・劇団四季の界隈において、観客が特定の俳優のファンになることって、「作品主義」から逸脱しているのでしょうか?

 

もう一度、劇団四季の「作品主義」について考えたいと思います。

 

キャストはまず作品を第一に考え、作品主義を徹底する→キャスト個々人の特性を考慮しながら役作りに挑む→それをお客様にお届けする

 

劇団四季では俳優の詳細を知る機会があまりなく、運営からの情報供給も少ないです。

そのため、俳優の存在を知ったり、特定の俳優を好きになるに至るには、基本的には観劇や、作品を通すほかないと考えられます。

 

以上の点を考慮すると、観劇を通して特定の俳優のファンになる人の心理としては、「作品主義」に徹した俳優の姿や、その俳優の作品へのアプローチに共感を憶えたことをきっかけに特定の俳優のファンになることが多いのだと思います

 

このように、劇団四季において観客が特定の俳優のファンになるということは、俳優の作品主義思想の延長線上にあることなのだと感じました。

 

結論、特定の俳優のファンになるにしても、やはり劇団四季の理念にある「作品主義」が根底にあるのだと思います。いろいろ書いてたらまた岩城さんのファントムを見たくなって来ました・・・。

 

 

さまざまなキャストがさまざまな解釈を持って役を全うし、舞台を上演してくれることで、作品はより奥深いものとなります。『オペラ座の怪人』もまた、キャストやスタッフが作品のアプローチを模索し続けることで、日々進化し続けているのだと思います。

 

そしてこの「作品主義」に徹して作品に向き合う劇団員の方々が織りなす作品にファンは魅了され、私たちは何度も同じ作品を観たくなるのだと思います。またこのようなサイクルによって、劇団四季の理念のひとつである「舞台成果による経済的自立」が成り立っているのだと私は考えました。

 

このように、一貫した「作品主義」が劇団四季を日本最大の演劇集団へと導いたのだと思います。今後も劇団四季の発展を願い、私は劇場に通い続けます・・・・!

 

 

 

2022,08,09